20250425


2025年、初投稿。
結構前に家のWi-Fiルーターが変わってパスワードが変わって、それからまだ一度もパソコンを立ち上げていない。ノートパソコンは今立ち上げたとしてもインターネットにそのまま接続出来ないだろう。
この投稿はiPadにワイヤレスのキーボードとマウスを接続して入力していている。
ああ、あれを綴ろう、、と投稿をしようと思いつつ、何となくパソコンを立ち上げてWi-Fiに接続するのが面倒で流れてしまっている事が何度もあったので、タブレットでどこでも投稿する練習をしようかと試みている。しかし、iOSの入力のクセとキーボードの入力のクセが慣れない。まだ改行も変換も馴染めない。

冬場と夏場は気候が厳しくて、エアコンのついていない自分の部屋で作業をするのはやっぱり気が重くなり、リビングにいることが多くなってしまう。
私のノートパソコンは結構古いのでバッテリーが直ぐに切れてしまう。
パソコンを新しく買いたいなと思いながらこのタブレットでほぼ全てをカバーできるので優先順位が低くて後回しになっている。
でもパソコンを新しくしてマスタリングソフトやDAWソフトを入れてみたいと何年も思い続けている。ちょっとこのiPad miniはそこまでは荷が重い。
今は(といっても録音も何年もやっていないですが)MTRでミックスダウンまで終わらせて、ごく簡単な音圧の調整と頭終わりの処理だけをフリーソフトでやっているのでゆくゆくは環境も整えたい。今のMTRもどれだけもつか分からないし。

さて、せっかく久しぶりなので私の近況ですが、相変わらず犬の散歩をしながら生活を維持しているといった感じ。犬はもう11歳なのでボチボチ悪いところも出てきたけど基本的に散歩の距離は時間は変わらず元気。喜ばしい事です。
そして何度か書きましたが、昨年ぐらいから散歩中にオープンイヤーのイヤフォンをして音楽やオーディブルを聴いている。
オーディブルが自分にはすごく合っていて、これも以前も書いたけど私は聴覚からの情報の方がダイレクトに入ってきて記憶にも刻まれやすい。目も疲れずに本が読めるのも素晴らしい。サブスクのプランに入っているので、ちょっと興味を惹かれるかな、ぐらいの軽い気持ちでどんどん新しい本を読むことができる。
ただ、自分の特性として、物語的なものを読むとその世界に共感没入しすぎて感化されてしまい、日常生活にまでその思考が侵食していって上の空になりがちである。
割とどんな設定だとしても、その物語に入り込んで主人公に共感してしまうし、痛みや苦しみや幸せを同じように感じて現実と切り離せなくなってしまう。
これは物心ついた頃からの特性でずっと変わってないので、多分それは数少なく自覚している元々からある個性の一つなんだと思う。(なので映画やドラマを見過ぎないようにしている)
そういった事から、意識的に自分を現実に揺り戻すようにチョイスに偏りがないように、自己啓発的な(自分では絶対に買わないけど結構面白い)もの、思想哲学などの教養系、エッセイ、純文学を順番に聴くようにしている。

そしてまさに今日の朝まで聞いていたのが「コンビニ人間」だった。
大久保佳代子さんの朗読が、最初は滑舌の悪さが若干気になってはいたものの、会話の語りなどにプロのナレーターにはない妙なリアリティがあり、この話を覆っている薄暗いドロっとした感じが彼女の低めの声によく合っていた。
普段は物語に引っ張られないように、暗いものは避けてずっとハートウォーミングで心揺さぶられ過ぎない物語を選んでいたのだけど、もう大概沢山場数を踏んだので、物語に触れるのも慣れてきた?かと思って前から気になっていた話題作であったこの作品にしてみた。

覚悟していたが、なかなか胸糞悪い感じがあった。でも意外とそこまで暗さに引っ張られなかった。主人公が感情移入するにはあまりにも特異な性格であるのと、全編を通して客観的な視点から描かれていたからか。
しかしながら、「自分がどう振る舞ったら良いのか分からず、周りの人の仕草や喋り方、持ち物をインストールして今の自分を作ってゆくしかない」「’普通の人’は自分の理解できない人間を世界から排除しようとする」そして「自分は自分の周りの世界のルールに従った生き方をしないと排除されてしまうという危機感が常にある」という要素は自分にも心当たりが有りありにあって、まさにそういう部分で生きづらさを感じていた事が今まで沢山あった。というかざっくり自分を分類すると、完全に主人公側の人間であると思う。
自分もあまり人の事がわからないし好きではない方なので、何十年もかけて、周りの人たちの’普通の人たち’の振る舞いや心情を学習理解していったと思う。今の自分は、今までどこかで出会ってきた誰か達の外側の集合体であるとも言える。
でも、みんな生まれつきそんなものが備わっていたのだろうか。
普通、というのは何なんだろうか。
皆多かれ少なかれ、他人とは違う部分があるだろうに、自分の想像しうる思考回路を外れたものは「わからない」「怖い」と否定して排除しようとする。
自分だってそうしてる。自己防衛本能もあるだろうし、自分が割と社会に馴染むのに努力が必要だったので、それをせずにいる人を否定したくなるのかもしれない。勝手にこの人はこういう思考回路だろうと決めつけてそれを否定したがる。
私もあなたも、どちら側でも有り得るのだ。


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