20230103


新年明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

年末から昨日まで帰省してました。
19歳に大学で関西へ行き、それからずっと家を離れているので
自分が実家で過ごした時間よりも離れている年月の方が長い。
自分が変わってゆくのと同じく地元も変わり、自分の部屋も無くなり家の庭を手入れしていた祖父母もいなくなって庭は荒れてゆき、こうやって月日は流れてゆくことを毎年しみじみと思うのが私のお正月です。

すっかり荒れ果ててしまった実家の庭


毎年恒例、3泊4日、神戸から群馬まで18きっぷ+バス。
新幹線を使わないのは金額によるところが勿論大きいのですが
年に一度、折角の大移動なので移動している実感を得たいというのも
少しあります。新幹線だとあっという間に東京だし。

私は両親と母方の祖父母と一緒に暮らしていたのですが、自分が小さいころにはもう既に祖父は悠々自適の隠居生活をしており
旅行好きなので年に4回ぐらい、半月ぐらいの国内旅行に出かけていて、幼少期によく旅行に連れていって貰ってました。
加えて父親は必要最低限の車の運転しかしなかったので、出かける時には母親とバスと電車に乗ることが多くて、乗り物に乗り続けるというのが普通よりもあまり苦にならないタイプな気がします。
たぶん小学生ぐらいの頃、冬休みに電車に乗って伊豆に旅行したことがあって、車窓からたくさん柑橘の樹に実が成ってるのを眺めながら「電車に乗って知らない街を眺めるのは楽しいな」って思ってた記憶があります。

しかし今年は長距離移動に臨むにあたって元々の体調が思わしくなく、例年になく電車の移動が辛く感じました。
加えて、年々生活リズムが保守的になってくるのか、実家での居心地もあまり良くなくて、早く帰りたいなあって思いながらの帰省になっているのも事実ではあります。
年に一度の帰省なので親は至れり尽くせりしてくれて、まあこうやって世話になるのが親孝行?みたいな気持ちではいるのですが、ほんの些細な、起き抜けにコーヒーが飲めないとか、観ているテレビをどんどん変えられるとか、何かをするときにモノがどこにあるか分からないとか、どうでも良い事が苦痛になってくるのが老害化していってるなあって実感します。
自分の譲れないものが増えて短気になってゆくのが自分でも心地悪い。

新年早々、愚痴ばかりになってしまいましたが、それでもあと何年このルーティンがいつも通りに続けられるのかは分からないし、無くなってしまったらそれはそれで寂しく感じるんだろうなと思います。
私たちの生きている世界なんてほんの少しのきっかけで脆く崩れ去ってゆくものだから。
こういう気乗りのしない気持ちや普段のなんでもない瞬間こそ、流さずに大事に思いたい。
昔の自分はかなり意識がはっきりしていて、どんな瞬間の事も逃さずに覚えていられたんだけれど、流石にもう意識が飛び飛びになってしまって気付くと時間があっという間に経っている事が多い。
それはもう仕方の無い事なので、せめて意識的に色んな気持ちを言葉にしてゆきたい。


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