麓健一くんの新しいアルバム「3」を聴く。
昨年の発売日に入手はしていたんだけど、体調が悪い時期で
ちょっと今は聴くタイミングじゃないな、、と思って寝かせていました。
少し回復した時に1度聴いたけれど、やっぱり今じゃなかったって思って
折角久しぶりの新作なのにこんな再会の仕方をしてちょっと申し訳なかった。
年が明けてすっかり元気になったので改めて何度か聴きなおしています
最初はシンプルなアレンジの為か、あっさりと流れていってしまった感覚がありました。が、何度か聴いているうちにじわじわと曲がしみ込んでゆく気がして、ふとした時に頭の中に曲がよぎる。
あまりこういう感じを受けるミュージシャンって自分には居ない。
歌声が昔の心の声がそのまま映し出されたような刹那的なものから、「うた」に変わっていっているという印象を受けました。
ライブだけを観ていた頃はややもすればエキセントリックなイメージを持っていたんだけど、少しの期間ではあったけれど歌っている時以外の彼と接していた時に感じた彼成りの論理の通り方、世界との接し方(そしてそれは特に理解に苦しむものではなく奇異なものではない、誰もがそれぞれの論理を心の中に持っているというだけのこと)それが音楽になり、一旦曲として消化(昇華)されて「うた」としてなぞっている。
未消化なものをそのまま吐き出すというよりは、歌を歌っている感じが強くなっているように私は感じました。勝手な感想なので実際はどうなのか分かりませんが。
あれからもう10年近く経つのかな?
麓くんに声をかけて貰って数回、ドラマーとして一緒にスタジオに入り、一度ライブで演奏して。
バンドの編成で録音までしたんだけれどそのバンドの演奏がしっくり行かなかったらしくそれは世の中に出ることは無かった。
けれどその時に曲のデモとして貰った数曲がこのアルバムに収録されていました。
折しも自分自身も曲を作って歌ってゆこうと試行錯誤していた頃だったので
そのデモの曲や声がその時の自分にすごく刺さって影響を受けました。
それがちょうど自分の2枚目のアルバムに入っている曲を作っていた頃だったので、あのアルバムに何となく漂う刹那センチメンタルな雰囲気はそこからです。
バンドをやった時に貰ったのは、ギターと歌だけのシンプルなデモで(でも何故か何か所かコーラスがオーバーダビングされていた)それが逆に自分の懐にグサリと刺さったんだけど、「3」ではその時の印象をそのままフィルターをかけたようなアレンジで完成されていて
あれらの曲は年月を経てこういう決着をつけたんだなぁと、おかしな表現かもしれないけれど、納得しながらアルバムを再生しています。
あの頃、自分は「この人はそのうち自分の手の届かないぐらいに売れていくんだろうな」ってぼんやり思っていたんだけど結局そこまでメディアに露出せず思っていたような立場には立たなかった。
いわゆるマス・メディアに出る事を目標にして活動している人って自分含めて周りにも全く居ないし彼もそうだろうから、完全勝手な自分の思い込みなんだけれど。
でも、例えば普段音楽を聴かない様な人にも何らかの衝撃を与え得るんじゃなかいかと思うような力を彼の声から感じていたし、曲の美しさやキャッチーさも十二分だと思ってた。
私は音楽については「商業的に売れる売れないが成功ではないよね?」とずっと思っているので、その人が自分の思うような形で自分の曲を残せれば、それが本当の成功だと考えてます。
SNSで発信されていた彼自身のアルバムへの想いや、今ここでこれを聴いている自分がこれらの曲を大事に思う気持ちが湧き上がってくる、それだけでこのアルバムが世の中に出て良かった。みんな幸せ。
良い形で活動出来ているのが1番幸せ。
自分もいま心の中にある曲を良い形で残してゆきたい。