Blog 文章

ブログパートに何を書こうかなと考えていたのですが、
日々の出来事ではない事を綴ろうと思います。
長文の文章をゴールも決めないままに綴るのが昔から好きで、
その欲を満たしたいので日記とは分けてみました。

テーマを「あいうえおコラム」的な感じで決めて、それについてダラダラと綴ってゆく、みたいな感じです。

「あ:朝ごはん」

朝ごはんのメニューは家庭環境によるものが大きい気がするのですが
私の生まれ育った家庭では、父親は朝4時に仕事で家を出るし祖父母は結構早いし、自分は学校の登校時間に合わせて起きていたので、人によって朝食時間がマチマチでした。
幼少期こそ親の出していたものを食べていたのですが、中学生ぐらいになるともう朝は各々食べたいものを準備してそれを食べて良い、みたいな暗黙のルールがありました。


お年寄りと同居していると和食なんじゃないかと思うのですが、当時パン食というのがたぶん流行っていて私はトーストとミルクティー(一時期はピザトーストばかり食べていた)というのが大体の朝食でした。高校生ぐらいはシリアルとか食べてたかな?


祖父母は普通に和食だったんだと思うのですが、福島県出身の祖母が作っていたお味噌汁は異様にしょっぱくて何かドロっとしていて、私は実家のお味噌汁があまり好きじゃなかった。
のと、母方の両親との同居って事で(自分の親だから母親が気を遣わなくてよかった)夕食以外は完全に食事メニューが分離していた家庭だったので、
たぶん母親が子供の為に朝食に何品も作るのは面倒くさいからやらなかったんだと思います。(父親がやけに早出の家庭だったというのが大きいと思う。父親が起きる時に一緒に起きてお弁当は作ってくれてたけど朝食まではやってられないって感じだったのかな)

その下敷きがあったので一人暮らしをしてからも朝食はほぼ絶対にパンで、喫茶店でアルバイトをしてコーヒーが飲めるようになってからはパンとコーヒーというのが定番でした。コーヒーというのは多分何等かの依存性があるので、そのうち朝に飲まないと落ち着かなくなっていきました。
そのうちに朝起きる為に自分の楽しみなことを作っておきたい、と朝は甘いお菓子とコーヒーになってゆき現在に至ります。甘いものはコーヒーによく合う。


夫は一緒に暮らしてからずっと文句も言わずに20年ぐらい朝は甘いものとコーヒーに付き合ってくれています。どんな朝食をそれまで食べていたのかはよく分かりませんが、、、
でもたまに出張などで1人で宿泊したときにも「朝はシュークリーム買って食べた」と言っていたりするので、まあライフスタイルには合っているのかな。
イタリア人も甘いものを朝ごはんに食べるからそれで良い、みたいに言ってたような気もします。
でも旅行に行くと朝食バイキングでザ・和食みたいなチョイスをするので、和食朝食は気持ちに余裕があるときの特別な感じなのかと思います。
わたしも自分の母親と同様にもしも「朝は和食を何品も作って欲しい」とか言われたら、ちょっとやってらんねえって思います。

朝から甘いものを食べる、というと「信じられない」みたいな反応があったりするのですが、自分からすれば毎朝何品も食べられる方が凄い。
絶対に朝食を抜くことは無いけれどコーヒーを飲んで目を覚ます為のパンやお菓子を食べるという感じかな。
「明日のパン」っていう言葉が関西ではポピュラーらしいのですが、まあ明日のパンは準備し忘れたら結構ショックですよね。。何がなんでも準備しておく。

フルタイムで働いていた頃は必ずコンビニやスーパーで「明日のパン」を買って帰り、それを朝食に半分ずつ(1個は食べきれない)食べていたのですが、現在は毎日お店に寄るという訳にもいかないので趣味と実益を兼ねて週に一度、焼き菓子を1週間分まとめて作っています。お菓子作りは朝食づくり。

「い:犬」

我が家に犬が来て、もうすぐ7年になります。
徳之島という沖縄に近い鹿児島の離島からやってきた保護犬で
名前はバズという白い雑種犬。
夫が犬を飼うよりも10年以上前から「犬を飼ったら名前はセバスチャン」と決めていて、フルネームだと呼びづらいので愛称でバズと呼んでいます。
スキッドロウのボーカルと同じパターン。

そもそも犬を飼うというのは夫がずっと昔から決めていた事で
むしろ私自身は、小さい頃は犬が怖くて苦手でした。
昔の犬というのは大体が外で鎖に繋がれていて、近づくと滅茶苦茶吠えられたし、たまに野良犬が居て(大体野良犬は子供を見ると追いかけてくる)ずっと後をつけられて怖かった事もあったりで。
でも家族全員動物は好きでずっと鳥を飼っていたし、近所の猫がよく家に遊びに来ていたので好物の焼き海苔をあげていました。
でも自分がまさか犬を飼う事になるとは思ってもいなかった。

それは東京に住んで数年が経った頃。
元々自分の意志で東京に移住したわけでは全くなかったので
いつ関西に戻れるんだろうかと毎日考えていた頃、ある日突然夫が言い出しました。
「もう東京でこの仕事をするのは限界だから、会社を辞めて海の近くに住んで白い犬を飼って余生を過ごしたい」
普段からいつも現実逃避的なことを口癖のように言っていたので、その時にはああ、いつもの奴ね,、、と軽く聞き流していたのですが、家のローンが払い終わったら本当に関西に物件を見つけて会社を辞める手配を始めたので、これは本気の奴なんだなあと確信しました。
そして保護犬を飼う為に東京で色々な里親会を見学し、犬を飼う為の知識を勉強してモチベーションを高めてゆきました。
特にボーダーコリーの保護犬団体のイベントに何度か行っていて、そこで滅茶苦茶に賢い犬と触れ合う度、元来の動物好きが発動して「犬可愛い・・・飼いたい・・・」となったのは当然の流れといえます。
その後めでたく?本当に東京を離れて神戸に移住し、生活が落ち着いてからは毎日里親サイトをウオッチし続けて、白い犬、バズと出会いました。

どんな動物でも生き物を飼育するのは大変ですが、特に犬を飼うというのは相当に生活に負担がかかります。
人間が自分のエゴで保護した生き物なんだから、預かった人生(犬生)を幸せに全うさせるのは当然の義務だと思う。
犬にも人間と同様に感情があり賢い知能があり、それを満足させるには沢山の経験をさせてあげないといけない。
犬を飼う前に様々な本やサイトを読みましたが、有名な「犬の十戒」という言葉を目にして、これくらいの覚悟が無いと生き物の命を預かってはいけないんだと心に刻みました。
犬は人に飼われたら、その人の保護の元で生きてゆくしかない。


特にうちの犬は元々放浪していたのを保護されたので、外を歩いてマーキングをするのを生きがいとしています。トイレも絶対に家の中でしないので朝晩の散歩は必須。
そして犬は栄養管理も自分で出来ないからフードやオヤツも信頼出来るものを購入したいし、毛並みの手入れもある程度やらないと皮膚病にもなるし家の中が毛だらけになってしまう。(毎日ブラッシングしていても毛だらけになるけど)具合が悪くなれば心配もするし病院にも定期的に行かないといけない。
そして出掛ければ犬と入れる店は数えるぐらいしかないし、だからといって家に置いてゆくのは論外。(犬にとっては私たちとの世界しかないので)


犬がいる生活をするということは今までの犬がいなかった生活は無くなってしまうことです。
1日に何時間も散歩をし、休日は犬といける場所にのみ行き、基本的に留守番はさせないので夫が仕事に出ている時には必ず家に犬と一緒にいる。
我が家が急坂の上にあるというのもあってちょっとコンビニ・・・なんて気軽には外出出来ない。(これは犬が居なくてもそうだけど)
うちの犬は雨を怖がるので夜中に雨が降ったら怖がって歩きまわり起こされるし、雨が降ったらご飯も食べなくなって心配するし、ちょっとでも怪我をしたら心配するし元気が無いと心配する。(私はものすごく心配性なので)

もう7年もこんな生活を続けていて、以前はどうやって毎日を送っていたのかを思い出せないぐらいなんだけれど、でも幸せ。
平日の昼間の殆どの時間を犬と2人きりで過ごしているんだけど、それについては全くの過不足を感じません。誰か人間に会いたいとも思わない。
意思疎通が図れる世界一可愛い生き物と一緒に時間を過ごせて、しかもその生き物は自分を完全に信頼して慕ってくれているのは凄い事だと思う。


うちの犬はあまり犬らしい事をしない。(吠える、ボールで遊ぶ、オモチャを齧る、家具を破壊する、家の中を走りまわるなど)
言葉は話せないけれど(でも最近何か喋りかけてくれることが多い)こちらの話していることは殆ど分かっている。
犬というよりも、何かとてつもなく可愛い生き物と一緒に暮らしているという感じです。
犬がいるおかげで今まで知らなかった、見逃していた、見ようともせずに流してしまっていた、色んな世界をみせて貰っている。
ゑでぃさんが「茶目子に話しかけているようで、本当は自分に話しかけている」って以前にブログで書いていたけれど、私も本当は犬と一緒に暮らしながら自分と対話し続けているのかもしれない。


「う:海」

今、窓の外からは海が見えています。

この家は海に近い高台の際に建っているので、どの部屋からも海が臨めます。
朝、昼、夕方、夜、春、夏、秋、冬、晴れ、曇り、雨。
いつも違う表情を水と空と船が作っています。

「犬」の項目で書いたのですが、神戸に移住したのは全く自分の意図したものでは無かったので、10年前の自分はまさか今こんな部屋でこんな暮らしをしているとは夢にも思っていなかった。20年前の自分なんて一生大阪に住み続けると思ってたし。
夢にも思っていなかった夢のような暮らし。

私は出身が群馬なので、海というものが全く身近ではなくて強い憧れを抱いていました。(群馬の子供はみんな海をみると大歓声をあげます)
子供の頃は毎年、夏休みに「海に行く」という目的1本だけで特急を乗り継いで長い旅を経て、新潟の海辺の旅館に5泊ぐらい従妹家族と泊りに行くイベントがあり、その時だけ入れる特別な場所というイメージが強く植え付けられていました。
夏休みの解放感、どこまでも続く巨大なしょっぱいプール、水平線、海辺の匂い、波の音、砂浜に落ちている綺麗な貝がら、普段食べないような魚や貝、知らない寂れた景色や賑やかな街。
学校のある日常生活が全然好きではなかった自分は(登校拒否する程ではなかった、というか当時は登校拒否なんてよっぽどの事がなければ有り得なかった)いつでも薄っすらと海のある場所へと行きたい思っていた。

東京に住んでいた頃、お台場にある会社に勤めていたことがあって
通勤は新橋からゆりかもめでした。
超がつくようなビルの建ち並ぶオフィス街から、途中税関がある港を通って海が広がる景色に移り変わるドラマティックな車窓を毎朝、映画みたいって思って眺めてました。
(その頃に作った曲が「俯瞰する朝」という曲です)
その時にもやっぱり、このまま仕事になんか行かず途中で降りて海を眺めていたいって薄っすらと思っていました。勿論そんなことは一度も出来なかったけど。

今は見ようと思えばいつでも水平線やさざめく波を眺める事が出来るんだけど、そうなると贅沢なもんで、敢えて眺めるということをしなくなってしまう。
引っ越した当初はわざわざ夕暮れ時に合わせてギターと歌の練習をしたりとかしていたんだけど。
でもキッチンからリビングを見た時に外で波が光っていたり、犬の散歩でふと振り返った時に水平線が見えたり、海からのぼる朝陽の情景を眺めたりしていると心がスッと一瞬だけ透き通るような感じがして嬉しい。

自分にとって海はどこまでも続く夏休みの象徴で、流れ着く気持ちの終着点なんだろうなと思う。
生活と夏休みが共存している、といえばそうなのかもしれない。
でも夏休みって意外と沢山宿題を出されたりお手伝いをさせられたりイベントごとも多いし、のんびりできないよね。
結局、生活や日常を満喫するにはただの受け身ではない努力が必要だし、ここではないどこかなんてどこにも無い。
私たちはそれを分かっているのに、いつもどこかへ行きたがってしまう。

え:FMラジオ

私は殆どAMラジオを聴かなくって、FMラジオばかり聴いていた。


小学生の頃、我が家ではFMステーションを定期購読していた。
まだコンビニというものが殆ど存在していない頃だったから、近所の酒屋さんで頼めば本も取り寄せ出来たので、”FMステーション”と”花とゆめ”を定期購読という形で取り寄せ、刊行日には酒屋さんに取りに行っていた。
お酒やお米の配達がある時には一緒に持ってきてくれていた。

この2つの雑誌(花とゆめはマンガだけれど)は気づくと家にあって、いつでも最新刊が読めるものだった。他に”学研・科学”もとっていたし(学研のおばさんが持ってきてた)”みんなの歌”も毎月買っていた(これはなぜか酒屋ではなくて街中の本屋で買っていた)。
本というかとにかく活字を読むのが好きだった自分は何もしなくても文化的?な情報がどんどんと入ってきたので、今振り返ってみると黄金期といえる時期、中々に恵まれた環境で感受性を養ってきたんじゃないかと思う。

小学生半ばぐらいまでは番組表にびっしりと書かれたオンエアリストがまるで暗号のように見えていたんだけれど、5歳上の姉はそれを熱心に見て自分の聴きたいアーティストの曲を探してそれがオンエアされる日にペンで印をつけていた。
やがて自分自身も同じように聴きたい曲やアーティストが流れる日をチェックし自分のステレオコンポで録音するようになった。
FMステーションには毎月新譜のディスクレビューがあり、それを読んで自分の興味のありそうなアーティストを探すようになった。
あと種ともこさんの作曲宅録講座みたいなコラムがあって、内容は難しくて半分もわからなかったけど熱心に読んでいた。

ラジオの入口はFMステーションだったんだけど、そのうちにラジオをつけるのが習慣となり夜の時間帯にオンエアされるラジオ番組を毎日聴くようになった。
ただラジカセのアンテナを名いっぱい伸ばしても聴けるのはFM群馬とNHKーFMだけで、FMステーション(関東版)に掲載されている番組の半分も聴けないことに気づいて、物足りなさを感じていた。
そんな中学生の頃、なんと隣の埼玉県に新しくFM局が出来てそのオープニングセレモニー番組のMCが大江千里だった。(エピックソニーのアーティストが総出で出演して応援するみたいな内容だった記憶)
大江千里が当時の自分の中では大流行していたのでこの番組はテープに録音して何度も聴いて(ライブ弾き語りもやってた気がする)そのまま一気にFM埼玉(ナックファイブ)のファンになった。

FMラジオというのは音楽中心でDJが英語混じりで曲を繋ぐ、みたいなイメージが強いんだけど、FMナックファイブは違っていてDJがガッツリAM放送の芸人並みにお喋りをしてハガキを読み、その合間に曲が流れるっていう構成で、中高校生の自分には堪らない娯楽だった。
勿論テレビっ子でもあったのでテレビも見ていたけど、ラジオの方が今で言うサブカル色が強くって刺激があったな。
晩の21時ぐらいから3時間ぐらい、小劇場の役者さんが曜日替わりでDJをするっていう番組があってそれに滅茶苦茶はまって毎日聴いていた。
六角精児さんが火曜日担当で、今でも六角さんをみるとあの頃のラジオを思い出す。
今のテレビでいうと”5時に夢中”っぽいんだけど、それをもっと音楽寄りにサブカル寄りに内輪ノリでやってた感じ。バブル余韻の残る当時の空気感とともに、何とも自由な大人の世界を垣間見ている感覚が堪らなかった。自分もこういう大人になれるんだろうなって思ってた。

特に大好きだったのが水曜日で、後に調べたら若くして亡くなられてしまったんだけど(知った時には言葉にならない喪失感がありました)松本きょうじさんというパンク好きで劇団を主宰されている役者さんがメインDJをやっていた。
そのアシスタント?という形で今や大御所感すらあるほど有名になった脚本家の岡田惠和さんが出演されていた。
岡田さんは音楽に造詣の深い方で、とにかく自分の趣味趣向に合う良い音楽ばかり紹介してくれていた。自分のソフトロック・サイケデリック・フォークの方向性は完全にこの番組のおかげで確立されたといっても過言ではないと思う。
あとマンチェムーブメントとかネオアコの走りみたいなムーブメントも教えてくれた。
毎週テーマに沿って”音楽特集”という「ロックの歴史」みたいな事も教えてくれていて、それをテープに録音して何度も聞き返して実際にレンタルCD屋さんに行ったりFMステーションで聴きたい曲が流れる番組を探したり。
おかげでウッドストックとかフラワームーブメントとか、リズム&ブルースとか、ちゃんとした?スタンダードなロックに関してもある程度の知識をさらうことが出来た。

今はインターネットで深掘りするような事を、自分は殆どFMラジオでやっていた。
そしてその絶妙な不便さが自分の音楽に対する思いをより大きく増大させていったのは言うまでもない。
文章を読んで聴きたいと思った曲を実際に聴くまでのその時間の長さ。
じらされるような時間の間に妄想は膨らんでゆき、実際に曲を手に入れたら骨の髄まで吸い取るような勢い(笑)で何度も何度も聴きこんだ。
CDを一度買ったら(高いので)そんなに良くないと思っても何度も聴いて無理やり良い部分を探した。
あの燃えるようなモヤモヤ感、それが自分が曲を作り始めたときの「初期衝動」に繋がっていったのだと思う。
後にもっとお金や行動が自由になった大学生時代に、アルバイトしたお金をなりふり構わずどんどんレコード屋さんで使っていくことになったのも、心の底に常にあった「聴きたい音楽に対する飢餓」の気持ちが原動力になっていたんだと思う。

もう何かの曲やミュージシャンに対して、ああいう執念的な情熱を持てるような気がしない。
それは欲しいものが簡単に手に入るような環境のせいなのか、色々な曲を知ってしまった経験なのか、加齢による情熱の低下なのか、あるいは全てなのか。

しかし便利になったのは事実だし、新しい音楽やアーティストにアクセスしやすくなった。あれどんなだろう?も、あの曲どんなだったっけ?も、久しぶりにあれ聴きたい、も一瞬で叶えられる。
インターネット過渡期を生きてきた世代で良かったなと(文化的にはね)時々しみじみと思う。

お:推し

私は “推し” という概念を理解は出来るけれども共感した事があまりない。

誰かひとりの芸能人に夢中になるっていう事が無くって、今でも「好きな芸能人は?」みたいな質問をされたらちょっと困ってしまう。
それは年齢を重ねたからという訳でもなく、昔から、多感な中高生時代でさえもアイドルに夢中になるという事が殆ど無かった。
男性アイドルへの疑似恋愛に関しては全く無かったと言い切っても良いぐらいに無い。

“推し”という言葉は若い子の間では普通に「身近な憧れの子」みたいな意味でも使われていて、以前に勤務先にいた高校を卒業したばかりの女の子は通学で会う他校の男子をしきりに”推し”と言っていた。
私の場合は中高生時代に憧れの先輩みたいなのも居なかったし、恋愛感情を抱くのは決まって近い存在で自分におそらく好意があり、且つ自分と価値観が合いそうで、、、って色々条件を設定してそこから徐々にこの人なら、みたいなある意味打算みたいな(婚活かよ)ものが働いてしまうので、「手の届かない “推し”が居てその存在を愛でる」みたいな人とは根本的な方向が違うような気がする。

アイドルとかは非現実的な存在だし、そして別に男の美形には心は動かされない。(あら綺麗な顔ね、、ぐらいにしか思わない)
女性アイドルとか女優の綺麗な人は本当に綺麗なので、それを見てると嬉しい気持ちにはなる。
女性アイドルは小学生高学年ぐらいに周りの子が「明星」とか「平凡」の切り抜きをし始めたのを真似してキョンキョンとかおニャン子クラブとか切り抜いてみたりしていた。しかもおニャン子では河合その子という今でいう”推し”のような存在もいた。(可愛かったよね。アルバム1枚だけ買った。フレンチポップオマージュで良かった。)
でも「アルバムを買って聴く」以上の行動をしたいとは思わなかったし、しかも全部集めてた訳でもなかったし、もちろん本人に会いたいとも思わなかったな。テレビでコンサートの様子とか放映してても行きたいとも思わなかった。
そしてほんの2年ぐらいで自分のアイドル推しのようなものは、あっさりと終わってしまった。

中学生頃になると殆どの周りの子がジャニーズ(私の時代は光GENJIだった)に夢中になり始めて、グループの中では誰々が良いって話をいつもしていたけど、やっぱり男アイドルは別に、、、っていう気持ちが大きくて歌を聴く気にすらなれなかった。
男アイドルの見た目が好きじゃなかった上に「カッコいい、可愛いオレが女の子を夢中にさせちゃう」みたいなコンセプトがとにかく受け付けなかった。若い男の自意識は今も昔もめちゃくちゃ苦手。

もっと大人になってゆくと今度はスマップが全盛期になって、職場とかでは挨拶代わりに「スマップでは誰が好きか?」という話題をまず訊かれたりするようになって、今なら適当に「キムタク」とか言えるんだけど、まだ若かりし自分は頑固だったので「あまりそういうのは・・・」なんて正直に言ってしまって場をカラカラにさせたりしていた。
その度に「やっぱり何かそういう好きな芸能人って作っておいた方が良いのかな」ってちょっとだけ悩んだりしていた。
身近な存在(姉とか従姉妹とか)や、この子は自分と同じ匂いを感じる、、と勝手に思っていた友達が「最近好きな芸能人」の事を話し始めて、「やっぱり皆何かしら好きな芸能人とかっているんだ、、、そういうのが無いのって自分だけかも知れない、、、」って疎外感を感じたりした事もあった。

アイドルに限らず、俳優でもスポーツ選手でも特に夢中になったり応援したりする事ってなかった。ドラマは個人プレイではなくってドラマの内容として見るし、スポーツは興味が無い。


私は人の顔を見分けるのがとても苦手なので何度も見ないと人の顔を覚えられないっていうのもあるんだろうなと思う。
そして「恋愛感情を抱いて何かを愛でる」みたいな、感情のある部分が一部欠如しているんだろうなと思う。(犬とか猫とかは全然愛でられるんだけどね)
とにかく職場などで雑談の話題に困ったりして、今まで結構苦労をしてきたんだけど、そのおかげで時間もお金も自分自身に集中できてきたっていうのはある。
自分の不自由なところは「で、それを応援したら自分にとって何が得られるの?」ってすぐに思っちゃうところで。そういう事を考えずに夢中で応援できるような存在を ”推し”と呼ぶんじゃないかと思う。

そう、私は基本的に自分の事が異様に好きで自分の創作するものが異様に好きで、自分がなにかを吸収して創作する事に手一杯で、他の人を応援する余裕などないんだろうと思う。
もし自分が何かを創る事が出来なくなってしまったら、その代わりに他の誰かを応援する日が来るのかもしれない。
それはそれで寂しくもあるけれど、そういう風に何かに夢中になってみたいという気持ちもある。余裕が欲しいですね。

か:カナリア

子供の頃、カナリアを飼っていた。
飼っていたという言い方は傲慢ですね。世話をしていたのは主に母親だし、私自身は対してお世話もせずに「可愛がる」という美味しいところだけ味わっていたのだから。
犬を飼ってみて初めて分かったけれど、「実家で動物を飼う」のと「自分で動物を飼う」のは全く、本当に全然に違う。
実家で動物を飼っていた場合、全ての金銭的な負担、物理的な世話、動物の健康に対する全責任を背負っているのは親。犬の世話の為に学校を休んだり、遊びに行くのを我慢したり、とか子供はしない。

まあそれはともかく、うちのカナリアはものすごく長生きをして、私が小学校に上がるか上がらないかぐらいの頃に我が家にやってきて大学で実家を出る時にもまだ生きていた。13歳まで生きた。名前は特にこだわりなく「ピーコ」と呼ばれていた。
特に動物病院とかに連れていったりした事は一度もなかったので、母親の飼育がとにかく上手だったんだと思う。

元々、親戚の家で飼われていたカナリアの子供が親に苛められていて(貰った時には突っつかれて頭の毛が禿げてた)可哀想だから、という理由で我が家で引き取る事になったんだけど、ひ弱だった子供の鳥はストレスが無くなって栄養が良くなると、みるみるうちに立派な羽毛を持つ綺麗なカナリアになり、完全に家族の一員となった。
手にも乗ったし、人の手からオヤツを貰っていたし、人間がオヤツやごはんを食べている時には自分も食べたがってお裾分けを貰うまでに懐いていた。(ご飯粒が好きで、あげると喜んでた)

自分の動物好き、動物の世話に対する几帳面さ、神経質なまでの心配性は母親譲りなんじゃないかと時々思う。
ピーコは毎日昼間は母の仕事しているミシンから見える位置にいつも鳥かごを吊るして(ネコが来たら追い払うから)日光浴をさせて貰っていて、夏は保冷の為に濡れタオルが鳥かごに被せられていた。
我が家は祖父母が同居していたので常に人が居たんだけど、祖父母が長い旅行に出かける時は、母親の外出時など一人で留守番をする事になるので、部屋の中で波の音とかそういう環境音が鳴るラジオ(セントギガっていう衛星放送のラジオ)をかけて放鳥されていた。
帰宅すると部屋の隅っこで環境音を聴きながらウトウトと寝ていた。
毎日、夜は母親の手作りの鳥かごカバーをかけて貰って寝ていた。
こっそりカバーをめくって寝ているところを覗くと1本脚で寝ていたり、気づいて起きた時には怒って突っつかれたりした。

親から離れて育ったので、さえずり方を知らず庭によく来るヒヨドリの真似をして鳴いていた。流石に歌の上手な種類の鳥で、殆どヒヨドリ完コピの声だった。なので今でもヒヨドリの声を聞くとピーコと一緒だなって思う。
よく歌ってたけど、機嫌の良い時には不思議なもんで、教えられて無いのに時々カナリアの歌を歌っていた。
10年前ぐらいかな?その時にラジカセで録音した歌声を母親がCD-Rに焼いてくれた。
その歌声をずっと何かの曲に使いたいなって思ってたので「実在の声」という曲の最後に入れています。プロの人にミックスして貰ってピーコもきっと嬉しいだろうな。

多くの実家で動物を飼っている子供がそうであるように、私もカナリアを兄弟のように思っていて子供なりに一心に愛情を注いでいて大事に思っていた。
ピーコが居なくなったら、自分はもう生きてゆけないんじゃないかって本気で思っていた。
鳥かごを洗うときに一瞬、かごの下の部分を外して持ち上げるんだけど、いつもその時にピーコが逃げやしないかとドキドキしながら見ていた。
実際には逃げる事は無かったんだけど、その時の不安感があまりにも大きかったせいか今でも鳥を逃がしてしまう夢を時々見る。

私が大学生で実家を離れたあとも老鳥ながらも毎日を幸せに送っていたんだと思う。ある日電話で母親から「ピーコが亡くなった」と聞かされた。
年老いたので時々止まり木から落ちる事があったんだけど、ある日止まり木から落ちてそのまま動かなくなってしまったらしい。
電話を切ってからしばらく泣いた。
結局、それからだいぶ経ってから帰省したので遺体を見ることも無く、全てが夢だったんじゃないかと言われたらそうなのかもしれないけれど、ピーコの遺体は実家の庭のどこかに埋められている。もう土に還っていて何かの植物を育てているんじゃないかな。

その後、祖母も亡くなり落ち込んでいた母親に別の鳥をと、姉と従妹と一緒にプレゼントした。その鳥もピーコ同様にそれはそれは大事にされたんだけど、鳥かごを洗う時に逃げてしまってそのまま戻らなかったらしい。
鳥はホームセンターで購入したんだけど、ヤマガラという野鳥の種だったので(飼育の許可証を申請したらしい)外の世界に心が誘われる本能があったのかもしれない。
日が暮れるまで探したけど見つからなかった、と電話で話していた母親は少し涙声だった。
それから数年した時、母親に「もう鳥とか猫とか飼わないの?」と、ある日何気なく尋ねたら(母親は小さい頃猫を飼っていたらしい)「動物の世話は大変だし、出かけるのにも気を遣うからもう飼わない」と言っていた。


やっぱり飼育の全責任を一身に背負っているのは親なのである。

き:共感覚

全く意識をした事が無かったんだけど、昔から私はコードをイメージする時に色をイメージしている。
例えばBフラットならミントグリーン、Aマイナーなら夕焼けみたいなオレンジ色、Eフラットは青寄りの緑、Fは薄紫、Gは青、Cはピンクっぽい赤。
これは物心のつく頃からあった感覚で、もしかすると一番最初に鍵盤の運指を覚えるために鍵盤にそういうシールが貼ってあったのかもしれない!と、こないだ思いついたんだけど、はっきりとした理由は分からない。
赤が赤である、青が青である、緑が緑であるのと同じようにBフラットには色があるし、Cセブンスにも別の色があるし、Gにも色がある。

そういうような事を以前にSNSで書いた時に「それは共感覚では?」と教えて貰って、誰しもそういう感覚ではないんだという事を知り、それ以来、何となく心に留めている。

まあだからと言って別にすごく特殊な能力ではないと思うし、自分はたまたま色のイメージが結びついているだけで、他の人だってコードの違いによる世界の違いっていうのは感覚的に当然持っているんだと思う。
テレビでユーミンが「絵を描く時に色を重ねる感覚でコードやメロディを重ねている」みたいな事を言っていたらしく(と、スージー鈴木さんが仰っていたので又聞きなのですが)おこがましくも「ああ、分かるわー」なんて思ったけれど、自分はそこまで絵画的に振り切れてないのかもしれないなとも思った。
そういえば中学生の頃かな、、、FMステーションに「1234」をリリースした当時の大江千里のインタビューが掲載されていて、彼も「水彩画を描くような手法で曲を作っている」って語っていました。
アレンジが背景で歌詞が輪郭でコードやピアノが色で、、、みたいな。
それを読んで「ああそうやって曲って作ればいいのか」なんて思った記憶があります。
詩的な曲を作る人は絵画的に作っている人が多いのかもしれない。

私の場合、作曲方法が幾つかあるのですが、ジェニーの頃や、てくらがりを始めた当初は、ほぼ100%メロディ先行の鼻歌でした。
自転車に乗りながらが一番多いんだけど、思いついた中で曲に出来そうな良いメロディがあれば反復しながら次の展開を考えながらAメロBメロ、サビ、構成まで全部鼻歌で作り上げる。
それに後からコードを当ててゆくので、メロディの時点でまあまあトリッキーだった場合はそのままコード進行も不思議な感じになる。
この場合、メロディライン命になるので納得のいくメロディ進行にはなるんだけど、ちゃんと歌う時の事を考えないで作るので、自分で難しくて歌いきれず持て余してしまいがちになってしまう。


ギターがある程度弾けるようになってからは、ギターで適当に良い感じの響きのあるコードを鳴らしてそれにメロディを当ててゆくっていうやり方も取り入れています。
このやり方だとものすごく歌っていて気持ち良い、歌いやすい曲が出来上がるんだけど、メロディラインが凡庸になりがちで、自分の好みのねじれた感じは薄まってしまう。
でも、最近は凡庸でも良いじゃない、なんて思う事も時々あったりして。

今はボイスメモがスマホについているので、昔のように全部鼻歌で一気に作り上げてそれを忘れないように反復しながら家に帰る、みたいな事はあまりしなくなった。ボイスメモに頼るようになると、年齢とともに短期記憶力も低下してゆき、ずっとフレーズを覚えていられなくなってきたような気もする。
割と最近は少しずつフレーズを作っていくことが多いんだけど、やっぱり一気にいった方が気持ちいい曲が作れる気がするな。

意外とやっていないのがピアノを弾きながら作曲する方法で、元々ピアノが弾けるんだからそこから入りそうなものなのに何故か出来ていない。
ピアノアレンジに慣れていないからハードルを高く感じちゃうんだろうか。
色彩感から曲を作るという事では鍵盤楽器の方が自分は視覚的に慣れているので作りやすい気がする。

ピアノでも曲を作りたいなって言い続けているくせに全然進まない。
今年はまだ9か月あるので1曲ぐらいピアノで作るのを目標のひとつに掲げてみようと思う。

く:グラスゴー

ちょうど今ぐらいの時期。
1997年、大学3年から4年になる春休み、私たちはグラスゴーへ弾丸ライブツアーへ行った。
ツアーと言ってもブッキングが約束されていた訳ではなく、楽器を持ってグラスゴーへ行けば何とかなるだろうという若さゆえの無謀な旅だった。


そもそもそのツアー?をしようと言い出したのはミオリちゃんだった。
まあこの旅に限らず、バンドが何か大きな転換を迎える為のアクションを提案して、結果バンドを大きくしてくれたのはいつも彼女だったし、私や他のメンバーは特にそういった努力もせずに乗っかってただ曲を作って演奏していただけだったように思う。
ベアーズでのイベント主宰も、(そもそもベアーズにデモテープを渡すという提案も)米国音楽へのデモテープ送付も、グラスゴー行きも、マイスペースもグッズの販売も全部彼女が主導してやっていた。そう考えると、今ひとりで音楽をやっていて、大変だな向いてないな、って思うことは全部やって貰っていたんだなって今更思う。

まあそれはともかく、今考えると、まあ恐ろしい事をしたと思う。
まだインターネットがさほど普及していない(携帯電話もスマホではなく普及率は半々ぐらい。海外ローミングが整備されていなかったので我々は海外に携帯を持っていかなかった)時代であったゆえ、そんな無茶が通用したのかもしれない。
ホテルだって最初の宿こそ予約をしていったけれど、そのあとは全て観光案内所やタウン誌で情報を得て電話して予約した。
英語も完全なカタコトレベルだったけれど、帰国子女であるYちゃん(彼女に関しては後に色々な確執が自分の周りのあらゆる方面で起こったので、敢えて仮名とさせて貰う)が同行してくれたおかげでグラスゴーのミュージシャン達とも何とか意思疎通も図れた。
メンバーそれぞれの都合で途中から合流したり途中で帰ったりという事はあったんだけど、私とミオリちゃんは一か月まるまるイギリスにいた。
最初1週間ロンドンで過ごしてその後2週間グラスゴーへ行き、途中で帰るメンバーを見送って最後1週間またロンドンで過ごした。
(現地でメンバーと合流したり解散したりしたんだけど、その連絡も携帯電話無しでどうやってやったのか覚えていない。けど、何故かちゃんと合流できた)


事前にミオリちゃんが「グラスゴーに行ってライブをしたいんだけどお勧めのライブハウスはありますか?」という内容の手紙をケミカルアンダーグラウンドというレーベルをやっていたデルガドスに書いていて返事を貰っていたので(勿論e-mailではない)グラスゴーに到着した後、そこに書かれているお店に行った。
13thNOTEというバー兼ライブハウスで、ワンドリンク程度の入場料を払うと気軽にライブを見られるというお店で、(後で知ったんだけどパステルズとかもそこでイベントをしたりしていたらしい)
勿論飛び入りは断られたんだけど、デルガドスの手紙をみせて「ここでやったら良いってきいたから・・・」みたいに泣きついたら、空いている日にライブをさせて貰える事になった。

スティーブンパステルの働いているレコード屋に何度か行って(わざとらしく)パステルズのレコードを買ったりしていたら、数回目に本人が出勤の日に行くことが出来て会えたので、ライブをやるから見に来て欲しいと伝えたら(今考えるとよう言うたな・・)13thNOTEでのライブにカトリーナと一緒に本当に来てくれた。
ライブの日はBMXバンディッツのフランシスも居たし(大ファンだったのでドキドキして話しかけた)TFCのジェラルドも居た。他にも何人もグラスゴーのミュージシャンがいた気がする。
「あ、皆こんなに気軽にその辺にいるんだ、、、」って不思議な気分になった。
ライブの後、V-TWINというバンドをやっているジェイソンの自宅スタジオに招かれてそこには何故かユージンケリーも一緒に来ていて、”Indian Summer “を生歌で聴いて夢みたいだった。
部屋にはドラムもあって、バンドメンバーのマイケルが調子にのってドラムを叩いて騒いでいたら、そこは実は普通のアパートの1室で防音はされていなかったらしく近所から苦情が来て警察が来たりした。

ライブの後でジェラルドに練習スタジオを教えてもらったので、後日そこに練習しに行ったら、TFCのメンバーが普通にみんないて一緒に写真を撮った。(実は以前に日本でもツアーの打ち上げで会った事があって、その時にも写真を撮ったんだけど覚えていてくれてたんだろうか、どうか)
余談ではあるが、そこで外国のドラマーは皆シンバルを自前でスタジオに持ち込んで練習するって習慣を知った。シンバルが全くついてないドラムセットがスタジオに置かれていたのを見た時にかなり途方に暮れた。。

その後、ジェイソンがブッキングをしてくれてエジンバラでもライブをやった。
POLICE CATというパステルズのアギの弟であり、パステルズの来日のサブメンバーとしても一緒に来ていたジョナサンのバンドとV-TWINと一緒にライブをやった。
日本からのバンドなんて当時は滅茶苦茶珍しかったから(たぶんテニスコーツとかがグラスゴー人脈と知り合うよりも前の時代だったから)なんかすごいバンドなんじゃないかと勘違いされて、しかも下手くそだし(パンクなのかなって思われたのかも)子供みたいに若いしでみんな興味津々で、どのライブ会場でも、ものすごく盛り上がった。
日本でのライブでもあんなにお客さんから反響があった事って無いぐらいの反応があって、一気に人気バンドになった気分になった。

ジェイソンは日本でも界隈に必ず1人はいる「皆と知り合いで皆を繋げるのが自分の役目」みたいな人だったので、彼のおかげでグラスゴーの会いたいミュージシャンにはほぼ会えた。
当時Jeepstarから2ndアルバムを出したばかりだったベルセバのキーボードのクリスや、Inter national airport/Appendix Out (あとパステルズのサブメンバーでもある)トムクロスリーなど、今まで知らなかったミュージシャンとも会って話したり出来た。
そしてなぜかNMEからの取材というのが来てインタビューを受けた。んだけど、その記事を目にすることは無かったので、結局記事にならなかったんじゃないかと思う。(今考えたらホントにNMEだったんか?)


グラスゴーでの経験があまりにも濃密だったので最後ロンドンでの1週間は私もミオリちゃんも抜け殻状態だった。毎日ホテルの周りをブラブラ散歩して買い物をしたり公園に行ったり。
グラスゴーの思い出話をしたりバンドのこの先のプランを話したり、ずっとしていた。
大学4年になる直前にこんな強烈な体験をしたら、就職活動なんて勿論考えられなかったな。。。
今後いかにバンドの負担にならないようにアルバイトとかで働きながらバンドを続けてゆくか、みたいな事ばかり話していたような記憶がある。

ノープランで行って想像以上の出来事が次々と起こって、この事がきっかけで後にパステルズのフロントアクトをやったり、KOGAからアルバムをリリースしたりする事になったんだけど、
もう一度同じ事をしろと言われたらもう二度と出来ない。

時代、タイミングもあったんだろうと思う。
今はインターネットのおかげもあり、日本と海外の心理的・時間的な距離はほぼ無いんじゃいかぐらいになっている。
その後続々と日本のバンドがグラスゴーへコンタクトをとって現地でライブをしたり親しくしたりしているのを見て、もしも今行っても珍しさは薄れて、あんなに皆がこぞって優しくはしてくれなかったかもなあ、なんて思ったりした。(音楽性というよりは物珍しさが勝っていたんじゃないかと思う)

そしてどうしてあの時あんなに滅茶苦茶な行動力があったんだろうかとも思う。
若さというのはそれだけで財産、というのは自分が若い頃からうんざりする位言われていたけれど、今になって心の底から実感する。
本当に若い頃には何度もそれを言われたって、それまでの人生ずっと若かったから気力が衰えた自分なんて想像出来ない。絶対に分からない。


グラスゴーでの出来事を私はたぶん一生忘れないんだろうけど、でもあれを自分の人生の最良の瞬間だったとかはあんまり思わない、、、なぜだか。
思い出は思い出として、大事な場所にとっておきたい。
でもその時にも思ったけれど自分のあるべき場所はあそこじゃないな、とも思った。結局あの輪の中に本当に入る事は出来ないんだろうなって感じた。
観光客の域を超えられないというか。
バンドを続けて自分達でああいう居場所を作りたいねって話をしたりしたんだけど、結局バンドも無くなってしまい、自分は一人ぼっちでプカプカ浮いたままな感覚のまま。
結局今もまだ、これという自分の居場所をちゃんと決められていない気がするんだけど、こういうのは無理矢理やってもね。。。
ひとりで灯りを細々と燃やし続けて、時々、ちかちかと光を交し合う人が何人かいればそれで良いのかな。

け:元気を貰う

スポーツのニュースなどの感想で常套句のように使われる、
「〇〇選手の活躍で元気を貰った」という言葉がどうしても共感できない。
自分がスポーツに一切興味が無いからなのかもと思ったけれど、
音楽に対しても「元気を貰った」とか「勇気を貰った」とか
そういう物言いが割とよくあって、いつも「本気で?」
という気持ちでそれを聞いている。
スポーツ選手が頑張っていること、そしてその結果素晴らしい成績を残すこと、
それ自体はすごいなあとは思うけれども、それって自分ごととは一切関係無くない?
っていつも思う。

お前がひねくれているだけだろ、という捉え方しかされない気がするのでそんなに声高には言わないけれども本当にそうだし、実際言っている本人たちだって深く考えずにとりあえずそういう事を言っているだけなんじゃないかと思う。
本気でスポーツ選手から元気や勇気を貰えているんだったら、幸せな人だなあと(皮肉)で思う。
元気とか勇気とか、そういう概念自体が体育会系寄りではあるので自分にはあまり馴染まないけれど、それらは自分が行った行動や、自分に対して起こった出来事にしか生まれないと思う。

身内や友人に良い事があればそれで元気が出てくるのは、まあ分かるとして(うちの犬や家族が嬉しそうにしていたら嬉しいし)全然知らない人に対してそんなに強い思い入れが出来ない。
「推し」の項目でも綴った、自分には好きな芸能人が特にいない問題とも関連してくるのかな、、、


テレビ番組で歌が上手い素人の人がカラオケをするやつで審査員の人たちが涙を浮かべているのも「え、本当ですか?」と同じような気持ちになる。
歌が上手い人の歌を聴いても「歌が上手いなあ(声が出てるな、音程が正確だね、表現が上手だね)」という感想以上のものが出てこない。
お前の感受性が死んでるだけじゃないか、と言われるかもしれないけれど本当にそうだから仕方ない。
TVショウの演出なんだろうけれど、あれホントに良くない。
まるで泣くことでその人が音楽に対して深い愛情を持っているかのように捉えられるような風潮が生まれてしまうから。

これも音楽を音楽としてしか聴けないタイプの人間だから共感できないのかもしれない。でも自分は音楽を聴いてそれ自体に対して泣いた事が無い。こんなに長い年月、こんなにたくさん音楽を聴いているのにね。
ある時期によく聴いていた曲をふっと耳にして、その時の空気や思い出なんかが急に蘇ってきて「エモい」気持ちになることはあるけれど。
歌声に感動して泣く、という体験をしたことが無いんだよね。これは完全に個人差だと思うけれど。


もし誰かが「音楽に感動して泣いている」んだとしたら、その音楽の中に投影されたその人の感情に泣いているんだと思うし、自分はその前にその音楽の事を音楽として聴いてしまうのであまり感情を入れ込んで聴く事が少ない。
たまに辛い気持ちの時とかに無意識のうちに音楽が上手くその感情にシンクロしたりする事はある気がするけれど。
逆にそんなに上手くないけれど好きな歌声を聴いたり、大した結果を残せなかったけどなりふり構わず取り組んでるスポーツ選手をみたりしたら、何等かの心が動くような気がする。
けどそれはその状況に対してだし、そもそも元気は貰わないし勇気も貰わないな。。


もちろん音楽を聴いてスポーツを観て感動している人を否定するつもりも悪く言うつもりも無い。
自分の性格で欠如している部分がある為に音楽を聴いて感動する事が人よりも少ないのかもしれないとも思っている。
ただ、やたらと「感動した」「元気を貰った」って言いたがったり、みんなそうでしょ?っていう風潮が引っ掛かるだけで。


この「元気(や勇気)を貰う」という物言いに何故こんなに引っ掛かるのかと言うと、例えば数年前の無理矢理開催されたオリンピックでその成果として「国民みんなに勇気を与えた」という物言いが公的に行われたり、皆の共通項の明るいニュースとしてスポーツ選手の事ばかり(どうでもいい事ばっかり、、、)目にしたりする事が多くて、とりわけ公的な立場の人たちほどそういう事を言いたがっていてそれで国民の感情操作をしようとしているんじゃないか?っていう不信感ばかり募ってしまっているというのが大きい。


皆が本気でそう思っているんだったら、まぁ自分がおかしいんですわ、マイノリティなんですね、で済むんだけど、その雰囲気言葉で思考停止させられてない?それで本当に楽しい?満足?
って思ってしまうよね。

「勇気を貰った」「元気を貰った」というフレーズは人を動かす道具として使われがちだし、それを言う人の思考が薄っぺらく思うので、正直嫌いです。

「こ:神戸」

神戸に住んでもう8年半ぐらいになる、多分。
うちの犬が今10歳で、神戸に来てから半年後ぐらいに2歳で貰ってきたから
そこから8年プラス半年、、、っていう計算でいつも数えている。
もはや時間の感覚が曖昧になっており、もっと年をとったらもっと分からなくなるのかもしれない。
思い出を思い出す時にそれが10年前とか20年前とか、もう全然ぱっと分からない。

東京に住んでいたのは5年程度だったので、神戸に越してからの年月は東京に居た年月を軽く超えてもう倍近くになっている。
でも全然、長年住んでいるという気持ちにならない。
寧ろ東京に居た5年間は色んな事が起こりすぎて、あれがたったの5年なんて信じられない。
東京の会社を何社も転々とし、大震災が起こり、長年やっていたバンドは活動休止し、実はずっと繋がっていた新しい友人と出会い、ライブを観たり一緒に演奏したり、イベントをやるお手伝いをしたり、そして友人たちが東京を去っていって再び一人になってしまったり、、、
楽しい事も多かったけれど、喪失感や孤独感を感じることのほうが多かった。
それまでに大阪で積み上げてきた環境や生活習慣を強制的にリセットさせられている気持ちが強くって、ひとつも東京を好きになれなかった。

いや、東京に対しての思い出や愚痴はまた東京の項目で書くべきですね。
ここは神戸について書く場所であった。
神戸に来てからの日々は、それまでの東京の日々とは打って変わって、
仕事も根を詰めてやる必要も無くて、毎日美しい景色や季節の移り変わりを眺めているだけで良く、そして傍らには犬がいる。(愛の塊)
毎日毎日に大きな刺激や変化は無くて多少の事件や気持ちの浮き沈みはあるものの、決定的な絶望感に襲われるような事も無い。
ものすごく気持ちが高揚する事も少ないけれど、深く悲しむ事も無い。
そんな毎日を過ごしていたら、いつの間にか8年半も年月が経ってしまった。

将来自分が神戸に住む事になろうとは全く予想もしていなかったんだけど、中高生時代には既に神戸に対しては何等かの思い入れがあった。
神戸といえば大江千里だし(実は大阪出身だけど)、平中悠一だし、彼らの描く海のあるオシャレな街の物語には当時海が非日常であった自分にはものすごく憧れがあってそれらを夢中で吸収していた。
今みたいにネット書店も無かったので、前橋の煥乎堂という当時ほぼ唯一であった大型書店へ行って、1500円ぐらいする平中悠一の新刊や旧刊を清水の舞台から飛び降りる気持ちで買って帰って何度も読んだな。
神戸の事なんて何も知らないのに塩屋や舞子という単語だけはなぜか知っていた。(大江千里にも塩屋って曲があったし)
世代に漏れずオリーブを愛読していた自分は一番の憧れは勿論東京であったけれど、その東京を相手にしていない独立国家のオシャレタウンという感じ(実際は神戸の若者はみんな東京に憧れてるけれどね)が素敵だなあって思っていた。
結局自分は、神戸には手ごろな国公立大学が無かったのとその閉鎖的な学園コミュニティに途中からは入り込めないなあっていう気がしたので大阪の大学に進学した。大阪は何か面白そうだし懐が広そうだから馴染めるかもっていうのも理由の一つだった記憶がある。(当時、30年ぐらい前の大阪は全然懐が広くは無かったけどね)

神戸という街は本当に自分にとって何の過不足も無くて、これ以上街に対して望むことは何も無い。足りないものが無い。
よく言われる通りに海もあり山もあり街もあり文化もある。
そして海から山へ、山から海へと吹き渡る風のおかげで気候も比較的安定していて空気がいつも洗われている。(この表現は平中悠一さんの引用です)
自分が住んでいる場所は海にも山にも徒歩数分で入る事が出来る。今日みたいに晴れた日には海面がキラキラと輝いているのが見えて振り返れば山が陽射しを浴びて青々としている様子が見える。(六甲山系は常緑樹の山なので冬でも青々としている)
電車で10分少し東へ行くと、旧居留地や百貨店やショッピングモールのある紛れもない立派な街へ行ける。東京や大阪ほどの人混みではなく、ほどほどに人が沢山居て華やかに賑わっている。
あまり行かないけれど昔からのレコード屋やジャズ喫茶やライブハウス、古本屋や雑貨屋、インテリアショップ、フレグランスや古着やセレクトショップ。
街のお洒落さなら下手な東京の郊外よりも全然洗練されている。
そして歴史がある街なので場所によっては昭和ノスタルジックな雰囲気も感じられたりする。
のんびりしようと思えば幾らでも海辺や誰もいない山へ行ってぼおっと出来るし、何か物質的なものを得ようと思えば街まで行けば良い。
本当に無いものが無いのだ。

しかし、こうやって毎日毎日をただのんびりと無為に過ごすのは、もしかしたら自分はあまり向いていないのかも、と時々思う。
東京から越した当初は、のんびり良い景色をみて毎日清々しい気持ちで可愛い犬と過ごしてそして良い曲を沢山作って、界隈のシーンなんて関係ないところで沢山発表して、、、なんて青図を描いていたんだけど、
結局は日々の生活の事で頭がいっぱいになってしまって生活以外の事が何も出来ない事に焦りを感じてしまっていて、そして何年も何年も時間だけが過ぎてゆくのを辛く思ってしまう。
勿論それはそれで誰にも迷惑をかけていない、ごく普通の暮らしである。
別に何も成し得ていない事を後ろめたく思う必要は無いんだけれど、振り返って何も残っていないかもって思って悲しくなってしまうような性格は多分この生活に向いていない。
仕事をすればお金が残るし曲を作れば曲が残る。こうやって文章を書けば文章が残る。考えてみれば今までの人生、全てこのように何かを残すための生活をしていた気がする。心が動けばそれを文章に、曲に。生きてゆくためのお金を得るために働きながら作ってゆく。
もしそれら全てをしてもしなくても良いよ、と解き放たれても、結局自分は何も出来なくってそれが虚しくなり、結局心から自由を楽しむことが出来ない。

SNSやYouTubeやtiktokなど表現方法が今は沢山あって、誰もが自分の生活を気軽に発信出来る。そしてそうであるが故に若者は「自分が何者かになりたがって(何かに特化することで承認欲求を満たされたい、という意味だと思う)」いるという記事を読んだことがある。
自分は幸いなことに20歳の頃からバンドを始めてそこからずっとバンドをやっていたので、多感な若い頃は「バンドをやっているひと」というアイデンティティがあったのでそういう悩みを持った事って一度も無かった。
バンドをやっていた頃は、普通に活動をしているだけでどんどん成長してゆけているような実感があってそれが嬉しかった。
そしてバンドが無くなってしまった頃はもう若くは無かったけれど、頑張ってギターを練習して曲を作り「音楽をやっているひと」となった。
東京ではそれまでの大きな実績や知名度も無かったので、いまいち「音楽をやっているひと」扱いされなくって、それが結構嫌で悔しい気持ちもあって、早く関西に戻りたいなとばかり考えていた。
神戸に移ってアルバムも公式に作って、さらにその「音楽をやっているひと」を深化させてゆく予定だったんだけど、コロナ渦もあり活動はほぼゼロになり、バンドをやっていた時の知り合いとも割と疎遠になり今はそういう気持ちではない。
疎遠になった人は元々その程度の縁だったので、そのこと自体は人間関係をふるいにかけた形になり却って良かったとすら思っている。
問題なのは自分が「誰のために?誰に向けて?今まで音楽を作っていたんだろう」かとふと考えたときに答えがよくわからない事だ。
今は疎遠になってしまった人たちに自分の存在を知らせるために作っていたのだろうか。

承認欲求の為に音楽を作っているという気持ちは一ミリも無いんだけれど、それでも作った曲が一人でも多くの人に聴かれたり褒められたりすれば素直に嬉しい。そもそも自分も曲や文章は誰かに公開することを前提として作っている。
受け手の反応を一ミリも考えないで何かを作って発表することなんてまず無い。
でも誰かに評価されることを意識しながらそのための足跡を作ってゆくなんて馬鹿馬鹿しい事だと思う。
世の中の大多数の人たちは「何かをつくっているひと」でも無いのに別にそれについて焦っているわけでは無い。その心境になりたいんだけど、どうしても何もしていないと心のどこかで「こんな事をしている場合じゃない。この間に忘れ去られてしまう」って思ってしまう。
この矛盾を抱えながらも、何もせずにのんびりと気持ちよく過ごす事って中々難しいのだ。

神戸の話に戻る。
こちらに越してきてから知り合った人は何人かいるけれど、今現在自分が交流している人ってその前からの知り合いだったり友人だったりする人が大多数だ。
神戸の街はすごく良いところで8年半も住んでいるのに、私はこの街に関する思い出があまり無い。ほぼ大半を家の近所を犬と散歩したり仕事に行ったりして閉じた同じような日々を繰り返し過ごしているので、人間関係が広がってゆく感じはあまり無い。
大阪でも東京でも、新しく人と出会って新しい世界に触れて、という経験が後から振り返ってみると思い出になっている。
年齢のせいもあるんだろうけれど、もうあまり新しく人と出会ってそれを素直に喜べるみたいな経験ってしなくなってきてしまったなぁと思う。
サラっと出会ってサラっと別れてゆくだけ。
だからあっという間に8年半も過ぎてしまったんだ。

新しい場所を求める気持ちがどこかにあるのかもしれないけれど、
そんなしんどい事もうしたくないという気持ちもある。
全てはタイミングと流れなのかもしれなくって、たまたま今までそういう機会が無かっただけかもしれない。
自分はもしかしたら一生をこの地で終えるかもしれないと思うぐらいに、この街が自分にとって心地よく馴染んでいるけれど、まだこの街に対する強い気持ちが湧き上がらなくって、それは強い感情を持ってここで過ごしていないからだと思っている。
こうやって言葉にしてゆけば何も無いような日常も少しは思い出として残ってゆくのかもしれない。
やっぱり無為に何も残さずに生きてゆくことは出来ないタイプなんだと思う。

さ:作曲

はじめてのバンドではじめての曲を作ってから、もう30年ぐらいになる。
と振り返ってしまうと、自分でもその月日にちょっとびっくりしてしまう。
勿論、30年間ずっとコンスタントに曲を作り続けていた訳ではない。でも、どこかで活動を休止していたという訳でもない。
半年に1曲ぐらいは必ず何かしらの新曲を作っていたし、作っていない時もずっとずっと心の隅には「曲、作らなきゃな」って思い続けていた。
ダラダラと細く長く、続けてきた。

人に聴かせるような曲、という意味ではバンドで曲を作ったのが初めてなんだけど、実は高校生ぐらいの頃にキーボードで何となくの曲を作った事もある。
いわゆる「初期衝動」で胸が張り裂けそうになっている年頃。
でもその当時の私は曲を形にして残したり録音する技術を持っておらず、ラジカセでキーボードだけ録音した事があったけど恥ずかしくなって消してしまった。
1人でやっている事って人前に出していいものかどうか分からないものね。
バンドで曲を作ることになって、初めて誰かの承認の元に恥ずかしくない曲を世の中に披露できることがちょっと嬉しかった。
たしか初めてバンドで作った曲は「LUCY」という曲が初めてだったと思う。
いきなりE♭とかB♭とかが入ってた。
当時、サークルの先輩であったプレクトラム(当時スターサイン)のメンバーの方に「謎のメロディメーカーの登場やな」と評され、結構嬉しかった。

そういえば高校生の頃に作った曲も全然オーソドックスな3コードとかではなくっていきなり転調が入ってた気がする。
大江千里やXTC、高野寛とか高橋幸宏とか、そういうポップでメロディアスだけど一ひねりがあるっていう曲が中高生時代から元々好みで、3コードのパンクやロックはあんまり好きではなかったから、当然といえばそうなのかもしれない。単純で誰でも作れるのは格好悪いみたいな厨二の感覚か。
結局、今になっても好みはあまり変わっていない。
もっと沢山の音楽を聴いてきたので好きな音楽の幅は広がったけれど、基本線はその辺りなんだろうなって思う。一生、中学2年生。
構成やコードがやたら変な曲が好きだけど、それを作ったり演奏するのには何しろ技術が追い付かない。今も結局そうで、弾けるようになっても上手いギターアレンジが中々出来ていない。
アコースティックギターで弾き語りという形でライブをやるようになって、あれ?こういう曲ってあんまり歌が映えないのかも?とちょっと気づき始めて、今では割と簡単なコードや構成の曲というのもちょいちょい作っている。歌っていて気持ちいい曲って、作るときに「わー凄いのできた!」って思った曲とは一致しない気がする。
あと自分が聴いていて良いなと思う曲だって必ずしも凝った楽曲であるという訳でもない。声の力を出すにはシンプルな曲のほうが良い場合も多い。


今は殆ど訊かれないけど、昔は「どうやって曲作ってるんですか?」としばしば訊かれた。「やっぱり鍵盤楽器ですか?ギターですか?」みたいな。
私はその質問の答えがあんまり得意じゃなくって、最近はギターでと答える事が出来るんだけど(訊かれなくなったけど)、昔は「鼻歌かなあ」と答えていた。
でも鼻歌というと結構軽くきこえる気がして、何か上手い言い方が無いかなぁとは思っていた。
てくらがりの初期の方の曲は、ギターが殆ど弾けなかったので本当に鼻歌で作っていた。初期というか2枚目のアルバムの半分ぐらい、3枚目のアルバムも数曲は鼻歌中心で作った。
主に東京に住んでいた時の曲たち。
通勤しながらずっと曲のことを考えていて、ふっと浮かんでくるフレーズを何度も何度も脳内で転がしてそこから展開を考え、構成まで考え、、、までしてから、やっとギターを取り出してコードをつける。ギターはあんまりよく分からないので、キーボードでコードをとりながら該当する押さえ方を覚えていって作っていった。
これが基本の作曲方法。今はもっとギターが弾けるようになったので、ギターで好きな響きのコードを適当に鳴らして良い感じの流れになったらそれを弾きながら歌っていってメロディをつけていくのもやっている。
途中まで作って後は鼻歌方式で他のメロディ群をくっつけて構成も作って、ってやる事が多い。
他の人がどうやって曲を作っているのかは全く見当もつかないけれど、そんなに奇抜な方法ではないのでまぁ人並みなのかなと思う。
何十曲も作ってくると、他の作業と同様に作曲も手順がこなれてくるので、今はたぶん作ろうと思えば何等かの曲はいくらでも作れるのかもしれない。
と、考えてみると昔から作ろうと思えば何等かの曲ならいくらでも作れると思ってた。実際にはそんなに沢山作れていないので、本当にそうかどうかは分からないけれど、たぶんいくらでも作れるんじゃないかと思う。(俺は本気出してないだけ、、、の可能性もあるけれど)


ふと周りを見渡すと、世の中には曲を作れる人とそうでない人といる。
作れない人も、勉強をする事である程度の曲を作ることは出来るようになるだろうけれど、最初の「フレーズがふっと浮かんでくる」というのが起こる人とそうでない人がいるんだろうなと思う。
その浮かんだフレーズというのは結局、いつかどこかで聴いた曲のある部分なんだろうというのは薄々気づいているんだけど、それがポンと独立して浮かんできて、そこから違うフレーズをくっつけて展開させて組み立てる、というやり方は別に誰からも教わっていない。なんかいきなり出来た。
なので自分には何等かの曲を作るという才能が元々あったんだと思う。それが他の人が聴いて良いと思うのか、つまらないと思うのか、何とも思わないのかは置いておいて。少なくとも自分にとっては良いと思うまで組み立てられるぐらいの才能がある。
だからどうなんだろう。
「聴く人を幸せにしたい/元気にしたい」みたいな事を言っているミュージシャンをみて「はあ。そうですか。。」と思ってしまう捻くれた自分だけど、では自分は何のためにやっているんだろうね。
30年のうち、少なくとも15年ぐらいは「作りたい」という強い衝動があって、それに動かされて特に疑念も持たずに作り続けてきたんだけど、最近は音楽的な人間関係から距離を置いたという事もあり、曲を作れる人であるにも関わらず、そんなに作りたいと思わない。
だからといってこの先作らない訳は無いと思う。
今でも時々、色んな曲でふっと心を動かされる事があるので、その時に瞬間的に「こういう曲つくりたいな」って思うから。
先日、YouTubeか何かで絵を描く人が「絵を描きたいと思うまで他の事をする」みたいな事を仰っていて、最近はそういう時間だなぁと思っている。
でも作らないとどんどん錆び化していってしまうのも実感しているので、タイミングを見計らって腰をあげないとなって思う。
そしてまた堂々巡りしてしまう。
だからどうなんだろう。何のためなんだろう。って。

し:仕事

仕事について。
私の周りの、大多数のインディで活動しているミュージシャンは殆ど自分の仕事の事を語らない。
確かにミュージシャンは自分の音楽や哲学だけ発信していれば良いし、そんな生活感が出てしまったら神秘性が失われてしまって、その素敵な音楽の持つ世界観が褪せてしまう事も大いにあるので賢明だと思う。
そんな余計な事をわざわざ発信したいという自意識を持たない(あるいは見せない)彼らの事が私は大好きで尊敬している。
私もまた、割と生活周りの事はカジュアルに公にしてしまう側ではあるけれど、あまり仕事の事は発信しない。
東京に住んでいた頃はあまりにも毎日の仕事の世界と音楽をやりたい自分の世界とのギャップが大きすぎて、割と救いを求めるような気持ちでSNSに端々を吐き出したりもしたけれど、すぐ消したりしていた。
神戸に来てからというもの、そんな書かなくていいことをわざわざ皆の目に触れる場所に書かなくてもいいんじゃ?と思って殆ど書いていない。
私も周りの大多数のミュージシャン同様に仕事の事はこれからもSNSには書かないと思う。書く必要が無いので。

しかしこの場所はSNSではない。能動的にサイトにアクセスして見出しをクリックした人しかこの文章を読まないはずである。前から自分の歴史や考えを纏めるために一度ぐらいは仕事について綴ってみようかなと思うところもあったので、つらつらと書き進めてみる。

初めてやった仕事は高校生にあがる前の春休み。当時大学生だった姉がやっていた種苗屋さんの種の受粉作業というのを便乗して一緒にやりに行った。菜の花か何かの雄蕊の先をピンセットでつまんでそこに花粉をつけるという作業。
中学卒業したての子供にはそのコツコツ作業はなかなか厳しく、今思えばどれだけ給料分の作業を出来ていたんだろうかと思うけれど、春休み10日ぐらいやった。姉が行っていたので親も黙認してくれて行った。お給料は手渡しで、何に使ったのかは全然覚えていない。高校で通う為の雑貨屋さんのオシャレな自転車が欲しかったのでそれを買ったのかもしれない。(中国製でオシャレだけどすぐ壊れた)
そのあと、高校はバイト禁止だったけど同じブラスバンド部の子がパン屋さんで働いていたので便乗して半年ぐらいは働いた。店主さんが絵に描いたような善人のパン屋店主で、いつも作業中に自分の編集した同じミックステープをエンドレスで流していた。当時全くニューミュージック的なものを知らなかったので後から「あ、この曲パン屋で聴いた」と思って段々分かってきたけれどラインナップはアリス、チャゲアス、井上陽水などだった。何度も何度も繰り返されるテープの音楽が当時の自分にはかなり苦痛であったけれど店主はとにかく優しくて、早朝の出勤はいつも遅刻していたのに全然怒られなかった。時給は500円位だったけれど、数時間の勤務でお店のパンを1000円分ぐらいくれて、それが滅茶苦茶美味しかった。それでパンが大好きになった。地元を離れた後も帰省の時に何度か行っていたけれど、もうあの店は無い。
大学生になって一人暮らしをするようになって、初めて本格的にアルバイトを始めた。ずっとレストランのウエイトレスに憧れていたので飲食店でアルバイトをしたくって、初めて住んだ我孫子の商店街でアルバイトを探していたら張り紙をみつけた。うどん屋さん。
張り紙をみて、、、と履歴書も何も持たずに声をかけたら、府立大の子なら大丈夫でしょうと言われ(出身大学は大阪ではそれなりのブランドがある)そのまま働く事になった。
んだけれど、そこが今考えるととんでもないブラックアルバイトで個人経営のお店だったんだけどホールは1人、ワンオペで回してた。どんなに忙しくてもホールは1人。時間短縮の為にオーダーは伝票を書いてはいけなくて全て覚える、そしてレジはメニュー番号を入力する方式でその60ぐらいあるメニュー番号も全て暗記しないといけなかった。
初めての飲食店アルバイトだったので仕事ってそんなもんなのかと全て暗記してホールを一人でこなし、休憩時間は店主の私用のおつかいに行ったり仕込みを手伝ったりしてその時に「仕事はダラダラゆっくりやってはダメよ(女店主だった)」と叱責された。
1年ぐらい続けてある程度仕事がこなせるようになった頃、ちょっとした事で店主に怒鳴られて急にもういいや、と思ってその日に辞めた。たぶんその月のお給料は貰えなかったような気がするけど(取りに行くのも怖かったから)ブラックバイトという概念も持っていなかったから、急に辞めた方が悪いしこんなもんかなって思った。
しかしその時の苦労と「仕事はダラダラゆっくりやってはダメよ」という呪いのような教訓のおかげで、その後学生時代に色んな飲食店で働いたけれどどこも楽勝に感じた。
前の「グラスゴー」の項目で詳しく綴ったけれど、大学4年になる前の春休みに1か月グラスゴーとロンドンに旅行へ行き、帰国してからもずっと夢の中みたいにフワフワしていた私は当然のように就職活動という選択肢を持たなかった。
音楽やバンドを仕事にするつもりは全く無かったけれど、当時イギリスで出会ったミュージシャン達はみんなちょっと働いて補助金を貰い(当時イギリスではブリットポップを輸出する為に国策でミュージシャンに補助をしてたと聞いた)音楽と共にクリエイティブに暮らしているのを間近に見て、とても会社で働く将来は考えられなかった。
就職氷河期の入口ぐらいの世代だったので、就職活動をした周りの女の子たちはかなり苦戦していた。けれどサークルの男の子たちは軒並み大手企業に採用されたり、当時付き合っていた同じサークルの男の子は公務員試験に落ちて就職浪人を考えながらも妥協すればそれなりの大手子会社ぐらいの会社の内定はとっていた。(結局、内定を蹴って地元のスーパーで働きながら就職浪人をしていた)前述したが、出身大学は大阪ではそれなりのブランドを持っていたので、本気でめちゃくちゃ就職活動に打ち込めばそれなりに何社かの内定を私もとれていたかもしれない。ゼミの先生からも「出版社の就職紹介の話が来てるけど、やる?」と訊かれたのに秒で断った。だって出版業界なんて絶対忙しいし、そんな所で働いたらバンド出来なくなるし、、、
をんな感じで一度も就職セミナーみたいなものには行かなかったし、全く興味が湧かずにアルバイトばかりしていた。週5とか週6とか。稼いだお金でレコードや古着を買った。親は当然ガッカリしたけれど(今なら痛いぐらいに気持ちが分かる、、、学費や仕送りまでしたのに、、、)全く意に介さず、卒業後も飲食店でフリーターをした。
当時はフリーターというものがさほどネガティブなイメージではなかったんだよね。この後に出てくるけれど派遣社員というものにもネガティブなイメージは無かった。また失われた20年の入口だったから。
フリーター時代にKOGAからアルバムを出したりパステルズのフロントアクトをしたりとバンドが勢いがあったので、全然フリーターであることに負い目は無かった。出身大学の事を周りの人やお客さんとの世間話でふと出すと「なんでフリータなの?」って驚かれたり怒られたりするので面倒くさくなって学歴の事はあまり人に言わなくなった。
今の夫と出会った当時も私はイタリアンレストランでアルバイトをしていた。しかし夫はちゃんと就職活動をして某大手の関連企業で正社員として働いていた。まだまだ若手であったけれど、社会に出ている社会人という人種が身近にいることで会社で働く事に何となく現実味を感じるようになった。
ある日そのイタリアンレストランを辞める事になり、良い仕事ないかなと思ってアルバイト情報誌をみていたらオフィスワークの派遣登録の募集があった。飲食店なんて何年も体力が続く訳ないしな、という気持ちとアルバイトの1.5倍ぐらいの時給に惹かれて登録に行ったらいきなりスキルチェックをさせられた。
殆どパソコンを触ったことも無かったのでタイピングスキルなど皆無に近く、同時にテストを受けた他の子達がパチパチ打ち終わり次々と席を立っていくのを感じながらダントツの遅さでスキルチェックを終えた。
その後、訳もわからずに面談をしたら営業の男性が奥からファイルを持ってきてショールームの仕事を紹介してくれた。「これなら接客経験も生かせるしオフィスワークのスキルも身に着けられますよ」と言われ、時給の良さにドキドキしながらそのまま後日面接する事になった。「派遣の面接ってスーツを着るんですか?」なんて営業に訊くぐらいに世間知らずにフリーターであった。
初めての面接は若さと学歴と真面目さだけで通り、あっさりとショールームで働く事になった。推測するに、当時はまだ派遣業界もそんなに大きくなかったので競合とか無かったんじゃ無いかな。
全く認識も興味も無かったけれど、登録した派遣会社は派遣最大手であったし、働くショールームもその業界では最大手の優良企業である。大手特有のぬるま湯、緩くて優しい人間関係(会う人会う人皆が物腰柔らかくて穏やか)と時給の良さにすっかり満足してしまって結局8年も働いた。仕事の内容がほぼワンオペみたいな感じで自分の性格に合っていたというのもある。忙しい時間は忙しかったけど、暇な時間は暇だったし誰からも何の指図もされなかったので、その間にタイピングを覚え、エクセルを覚え、ワードを覚えた。フリーター時代に滞納してた税金も払って何となくの社会常識も覚えた。
その8年で景気はどんどん落ち込み、派遣社員というものが社会問題化してきた。世間の波に呑まれて自分もこのままずっと派遣社員という身分で良いのかしら、と不安に思うようになった。同じ仕事をしていた社員の女性が同じ仕事なのに待遇が全然違う事にもちょっと不満を持つようになって段々嫌になりついに辞めた。
それが折しもリーマンショックのタイミングであった。一見、大手に勤めて社会常識を身に着けたような感じであった自分だったけれど、中身はまだフリーターの頃の自分と大差無かった。社会情勢とか何も考えずに自分の中での糸が切れたタイミングで仕事を辞めてしまった。そこから正社員の事務員を目指して就職活動を始めたもんだから、まあ決まらない。零細企業でも1人の枠に100人(100倍!)とかだったので、書類選考すら通らなかった。34歳、若さも経験も無い学歴だけが中途半端にちょっと良いだけの妙齢女性は中々難しい。
3か月ぐらい泣きながら(本当に泣いてしまっていた)履歴書を書いて応募して面接して、を続けてやっと零細企業の事務員になった。
かなり怪しい健康食品と外国人歌手のプロデュースというのをやっている会社だったんだけど、踏み台にはなるかと3年ぐらいは頑張ろうと勤めた。ヤクザ風の会長とその奥さんが社長で、あとは会長の昔からの知り合いといういつもビクビクしている専務、そして自己破産歴のある営業男性がひとり。私は健康食品部門の事務を一人でやり、あと芸能部門でもう一人事務の女の子が居た。そっちの女の子は2ヵ月ぐらいでどんどん入れ替わっていたけれど、私は1年半ぐらいは勤めたと思う。
仕事はヒマでずっとFM801がかかっていた。(会長の音楽関係の知り合いがやっているからとか何とか)勿論怖いのでバンドをやっていることは完全に秘密にしていた。(これ以降、職場では学歴とバンドの話は秘密にするようになった)
会社はかなり怪しかったけど、ギリギリ違法な事はやっていなくてちゃんとしかカルシウムサプリを作って今よくネットである定期契約みたいな強引な売り込みもしていなかったので働いている時に良心の苛責などは感じなくてよかった。でもその代わり経営は常に赤字だった。ワンマンの会長は典型的なブラック企業の社長で気に入らない事があると専務や営業男性にすぐに怒鳴り散らしていたけれど、女性事務員にはさほど乱暴な事は言わなくってそこが本物のヤクザっぽくて余計怖かった。手取り給料は派遣時代の6割ぐらいでとにかく安かった。業績が良ければボーナスを出すと言われたけれど、まあ出す気は無かっただろうと思う。限りなく黒に近いグレーな会社で(もちろん今はもう無い)日常は綱渡り感はあったけれど意外と穏やかだった。事務員が自分1人だったので好き放題できて、暇な時にはお茶を飲みながらネットをみたり、おつかいで銀行に行く時についでにパン屋に寄ってパンを買って帰ったりしてた。
辞めたキッカケというのは、会長の知り合いが子供サッカーチームの大会を主催しており、そのパンフレットを専務と事務員である自分が作成したのだが、そこに掲載されている会長の懇意にしているクラブ(飲み屋)の広告の電話番号が間違えて記載されていたのだ。広告費用で10万円を徴収しているのに間違えるとは何事だ!お前の給料から天引きだ!と激高され、さすがに働いて10万取られるのは理不尽なのでその場でそれなら辞めると言ってその日に辞めた。

次の仕事は正社員経験のロンダリングのおかげで割とあっさりと決まった。2社決まってそのうちの1社に決めたんだけど、そこも所謂同族零細企業で、家庭と仕事の区切りがあまり無い感じだった。会社自体は歴史が長くて(160年とか何とか)今も続いている。何代目かの社長は若くて少し年上ぐらいだったんだけど、その奥さんととにかく反りが合わなかった。大手企業の営業職をやっていたけれど夫が家業を継ぐので退職したと言っていた。営業出身なので事務の事はよく分からないと言いながら、帳簿の細かい誤字をいちいち指摘されたり電話の出方を指摘されたりするのがストレスになっていって、ついには彼女の文字(汚い)を目にするだけでイライラするようになってしまった。
業種的に休日が少なくて土曜日も出勤だったのと出社時間も早くて8時だったのでライブがあると身体がキツかったりして心身ともに疲弊していて、3ヶ月ぐらいでもう辞めたくて仕方なかったんだけど、そこも書類選考から数えたら100倍以上の倍率だったと聞かされて中々踏ん切りが付かなかった。今は安いけど将来はボーナスもちゃんと貰えそうだったし、、、。
その頃、夫が東京に転勤になってもう1年が経っており、別居するメリットよりも自分が東京に行く方がどう考えても金銭的なメリットが大きいという話をしていた。夫も一人暮らしをしながらの激務で辛そうだった。インフルエンザにかかってすごく痩せた時期など見ていられないぐらいだった。
どうしてもバンドを休止したくなくって1年大阪に居たけれど、心身ともに追い詰められつつあり、もう絶対にこの会社に居たくないという衝動もあって東京へ行く事にした。
東京は何年いるのか分からないので派遣登録をして再び派遣社員に戻ったんだけど、正社員時代の給料を思うとその倍額ぐらいは貰えていた。
最初に決まった派遣先がそれはそれは穏やかで楽しい会社で、零細企業からのあまりのギャップに驚いてしまった。新卒からそこで働いていて一児の母である女性正社員(旦那さんも同じ会社だった)と出会った。見た目もすごく可愛らしくって話し方も可愛く穏やかで、でも仕事はちゃんと出来るので周りの優しいおじさん社員たちにとても大事にされていた。
ああ新卒で大手に就職するってこういう事なんだ。綺麗なビルで働いてそれなりのお給料を貰って穏やかな会社の人たちに囲まれて仕事もそれなりにやりがいがあって福利厚生も手厚くて人生に何の曇りも無くて、、なるほど、、、そりゃあ皆んな大手を目指すし薦めるわ。と初めてそういう生き方を心から羨ましく思った。
バンドももうその時の自分には無かった。
その職場は自分の職歴で1番好きで相性が良いと思ったところで、しかも大阪支社は自分の住んでいたマンションの向かいのビルだったので、このまま勤め続けて大阪に戻ったらそこで、、、とまで思ったんだけど、東日本大地震があって事業縮小してしまって契約が終わってしまった。
東京は大手企業の本社が沢山あって、そこに勤めたりその子会社に勤めたりと結局全部で6社ぐらい勤めた。辞めても辞めても次の仕事をどんどん紹介してくれる感じがさすが東京だなあって思った。登録時に正社員経験(ちょっと時期を伸ばしたりして盛ってたけど)があったというのも大きかったのかもしれない。
当たり半分、ハズレ半分という感じで色んな会社に勤めたけれど、どの会社もオフィスはピカピカのビルで飲食店やコンビニが1階に入っていてホテルみたいな廊下を通って社員証をかざして入室する感じだった。会社によっては窓からレインボーブリッジが見えたり、新宿御苑の緑や東京タワーが見えたり。綺麗なオフィスビルで働き、お昼は社員証を首から下げながらお弁当を買いに行ったり、近所のお店でランチをしたり。
ほぼ一通りのオフィスワークの常識とスキルが身について、ピカピカのオフィスビルでの勤務も経験して、何となく自分の思っていたOL生活を一通り東京で経験した。それはそれで楽しかった。音楽の世界とはかけ離れていたけれど。
東京での生活がいつまで続くのかなあと思いながらとりあえず目の前の仕事をこなしていたら、夫が「会社を辞めて神戸に移住して犬を飼う」と言い出した。
東京でとにかく働き続けた結果、大阪で住んでいて人に貸しているマンションのローンを完済したのだった。
大阪に戻るつもりでずっといたので、もうあのマンションには戻れないのかとちょっと寂しくなったけれど「自分のお小遣いぐらいは稼いでもらうけれど基本的には仕事はしなくていい」という言葉をきいて、ああもうこういうのは終わりなんだなって思った。
通勤からも正社員と派遣社員いう謎の身分制度からも、会社の人間関係からもピカピカのオフィスでの日常に対する執着もお金からも解放されるんだなあって。
結局、物欲は消えないのでお金からは解放されていないんだけど、今は割と好きなように日々を送っている。犬の世話は忙しいけれど。
自分は何をしても良いんだって、就職しなくっても良いんだっていう状態でいられるのがどれだけ恵まれていることか、それは本当にしみじみと感じている。
だからこそ生活をちゃんとやってゆきたい。
今の自分の恵まれた環境を知ると面白く思わない人も一定数居るだろうと推測している。私も自業自得ではあるけれど仕事の事でずーーーっと嫌な思いをし続けてきたので。(15年ぐらい前の自分が今の自分を見たら何だよコイツは、、、仕事しろよ、、、って思うだろう)なので仕事についての現状を積極的にSNSなどで発信する気は無い。
仕事から解放されたら音楽ともっと向き合う予定だったんだけれど、それはまた別のお話し。

まだこれからも人生は続くので、また仕事に関しては転換期があるかもしれない。でもとりあえず、ここまで綴ったので、もうこれ以上自分の仕事の事を詳細に書くことは無いと思う。
書きたくなるほど仕事の事を考える日々はもう終わったと思っているので。


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